賢者様の仲人事情【外伝】

サクリファイス 〜生贄の烙印〜


死霊術師が支配する、大帝国カムラ。
それは神にすら見放された、暗黒の歴史を持つ国。
その国で、神の教えを奉ずる方術師たちは、
ただ一人の天使を頼りに、日陰に生きていた。

――救国の日を、信じて。

「だれかあっ!」
 まだ幼い少女の声が、聖堂裏手の霊園に響いた。
 不浄な何かの気配に様子を見に来ていた少年が、走り出す。
 少年の姿を認めると、数人の男と死霊に取り囲まれた少女が、必死の面持ちで助けを求めた。まだ、7つかそこらの少女だ。
「たすけてっ」
 しかし、少年もやっと12になったばかり、死霊を土に還す方術であるターン・アンデッドも覚えたばかりで、明らかにその手には余る事態だった。それでも、人を呼んでいる暇がない。ぐずぐずしていたら、少女は助からないだろう。
 少年はキっと男たちを睨むと、カムラの天使・聖アンナの力を借り受けるべく、まだ慣れない呪文を唱えて聖印を切った。
「――聖閃矢ラ・ティグリア!」
 光の矢が放たれ、男たちがわっと怯んだ。
「きみ、こっちへ、早く!」
 まろびながら少女が駆けて来る。その少女を背に庇うと、少年は緊張した面持ちで、男たちを見た。――さらに、死霊を見た。
 殺されるかも、しれない。
「きみは行って!」
「でもっ」
「ここは僕が食い止める、早く!」
 少年は首にかけた聖アンナの聖印を握り締めると、どうか加護をと、願った。
 しかし、まず死霊を土に還そうとした少年の手を、いけないですと少女がつかんだ。
「ばか、何してるんだ! 早く行けったら!」
「だめです! 行けないです! カトレアが行ったら、あなたが殺されるかもしれないです!」
 少女は強くかぶりをふると、少年の腕にすがるようにしながら、めいっぱい声を張り上げた。
「死霊のみなさん、やっておしまいになって下さいーーっ!」
 少年は――方術師になったばかりの少年は、我が耳を疑った。あ然として光景を見た。
 男たちがみる間に死霊の群れに倒されていく。
 ……これ、止めなくていいんだろうか……? すごくまずい気がする。自分、仮にも方術師なのに。
 あまりのことに驚くやら、途惑うやらしているうちに、少年は止め損なってしまった。
 男たちはみんな、死霊に倒されてしまった。
「ああ、良かったです。ありがとうございました、司祭様」
 栗色の巻き毛が風に揺れる。天使かと見紛うばかりの、見たこともないほど可愛らしい少女。それが。今、何した――?
「……僕は、司祭ではないよ。ただの方術師だよ」
「そうですか。ただの方術師さんは何ていうお名前ですか?」
 そんな、素直に復唱されても。
「――セデス」
 少女がにこりと笑う。どきりとするほど可愛らしい笑みだった。
「じゃあ、セデス様、ありがとうございました!」
 少女はぺこりと頭を下げると、恐れげもなく死霊たちの方へと駆けていった。
「みなさん、ありがとうございましたっ。カトレアのぴんちには、またきっと助けにきて下さいねえ! おやすみなさあいっ」
 するとどうだろう。ゾンビが、お行儀よく出てきた穴に戻った。その上から、スケルトンが地道に土をかけて彼らを埋めて、埋め終わると、元の骨片に戻った。
 その骨を、少女が拾い上げる。
 少年はおそるおそる少女に歩み寄ると、尋ねてみた。
「君が呼んだの?」
 少女がこくりと頷いて、改めてセデスを見直す。
 ひどくまじまじと見入り、それから言った。
「よく見たら、セデス様はとてもかっこいいみたいです」
 セデスはびっくりした。そんなこと、初めて言われた。
 少年は確かに端整な顔立ちをしていて、目鼻立ちもきりっと整っていたけれど、だからと言って、それをほめる人間は周囲にいなかったのだ。
 しかし、少女の次の言葉に、セデスはそれどころでなく驚いた。
「カトレアは、大きくなったらセデス様のお嫁さんになることにしますね。セデス様うれしい?」
 ――ちょ、ちょっと待って!? いきなりそんなこと言われてもっ。
「え……ええ? ……と……う、うん……嬉しい、かな?」
 突き放すのもどうかと思い、けれど、気を持たせるのもどうかと迷う。セデスは自分、子供相手に途惑って、未熟だなと思った。後でアンナに笑われそうだ。きっと、笑われるな。
「うふふ、セデス様、カトレアはかわいいでしょう」
 自分で言っちゃうんだ……。
 けれど、これには素直に頷くことができた。
「うん、可愛いよ」
 それから改めて、セデスも少女を見た。
「ねえ、カトレア」
 少女がびっくりした顔をして、大きく目を見開いた。
「セデス様すごいです! どうして、カトレアの名前を知っているんですか……!?」
 いや、すごくないし。
 だって、自分で連呼してたし。
「その骨は?」
 カトレアはにこりと笑うと、違いますと、訂正した。
「骨じゃ、ありません。カトレアのお兄様です。カトレアはお兄様が大好きなんですよ。とても優しい、かっこいいお兄様なんです」
 少女の笑みは、屈託のない、無邪気な天使のそれで。
「カトレア……?」
 それでも、見上げた少女の瞳が、微かに赤みがかっているのに気付いた。それは、まだ幼い少女のものにはあまりに不似合いな、狂気の燐光。
「悪い魔法使いさんの呪いにかかって、今は骨みたいに見えるだけなんです。カトレアが危ないときには、さっきみたいに、ちゃんと……助けにきて……くれるんです……」
 瞳を赤く光らせたまま、少女がうつむく。
 豊かな巻き毛が柔らかくこぼれ、少女の顔を隠した。
 アンナが言っていた。死霊術は死への憧憬で扱うのだと。
 本当、だったんだ。この子は、まだこんなに幼くて、無邪気で人懐こいのに。
 年端もいかない身で、方術や魔術を扱うに足る、強い精神力など持てようはずがない。なのに、それに匹敵するほど強く、願うのだ。
 ――追いかけたいと。
 幼いほど強い、生きたいという願い。
 相反する二つの願いが、そのジレンマが、少女に死霊を操る力を与えたのだ。
 まだ、自分が何を願っているかすら、わからないだろうに……。
「……そうだね――」
 セデスは何も言わずに肯定すると、少女の頭を優しく、ぽんぽんと叩いた。
 ふいに、少女の目から涙が溢れた。
「……ど……」
 違う、生きてなんていませんと、狂気の色の向こうで、押し込められた少女の正気が悲鳴をあげた。叫ぶように、真っ直ぐな魂の色が、閃いた。
「どうして……カトレアは泣いているんですか……?」
 その死を否定したために、彼女は今日まで泣くことすら、許されなかったのだ。
「……お兄さんが、大好きだったからだね……」
「…………い……今だって、今だって、大好きですっ! カトレアは、カトレアは……!」
 えぐ、えぐと、セデスにしがみつき、喉を詰まらせて、少女が泣きじゃくる。
 セデスには何もできなくて、ただ、少女を受け止める形で抱いていた。少女の気が済むまで。
 可哀想にと、つぶやいた。
 何か理由があって、彼女も襲われていたのだろうか。
 その兄は、もしかしたら、殺されてしまったのだろうか。
「セ、セデス様は、どこに住んでいますか? 明日も明後日も、ここにいますか?」
 気が済んだのか、骨を大切そうにポシェットにしまい、目をぐしぐしと拭いながら、少女がセデスを見た。
「……僕? 僕はそこ……司祭長様のお世話になっているから」
「じゃあ、カトレア、明日もここに来ますね。明日は隠れんぼしましょうね。カトレア、遊んであげますね」
 セデスはあっけに取られてカトレアを見て、それからクスクスと笑った。
「うん、わかった。じゃあ、遊んでもらおうかな? 昼間は神殿の仕事があるから、3時に待ち合わせでいい?」
「朝からがいいです」
「……え? ええと、困ったな。うーん、じゃあ、カトレアも手伝ってくれる?」
 カトレアはにこりと笑って、いいですよと言った。
 まあ、子供の一人や二人、いたって大丈夫だろう。アンナなら笑って許してくれると思うし。たぶん。
「それじゃあセデス様、朝の7時に神殿にいて下さいね」
「え……7時!?」
 早い。それ、すごく早い。
「ええとね、それでね、カトレアが全然来なくって、3時になっちゃったら、今度はここで待ってて下さいね。忘れちゃだめですよ。カトレア、頑張って抜け出してきますからねっ」
「え……? 何、抜け出してって、カトレア、抜け出して来たの……!?」
 そうです! と力いっぱい頷いて、カトレアは「こっちに穴があるんですよ!」と、たたたっと駆け出した。
 確かに、城壁の一角、植え込みに隠れたところに子供がやっと通れるくらいの穴がある。
 ――って、お城?
「カトレア、お城に住んでるの……?」
 そうは聞いても、セデスはさすがに、カトレアを城の当主の子だとは思わなかった。
 セデスは国情にあまり詳しくなかったし、城壁の中には偉い人がいっぱい住んでいるんだろう、程度の認識だったから、どこかの貴族の子かなと考えたのだ。身なりはいい子だったから、下働きの子だとは思わなかった。
 そうか――
 セデスは少しだけ、残念に思った。
 手の届かない子なんだなと。
 分別がつく頃には、会えなくなる子なんだなとわかり、少しだけ、寂しかった。

 ――少女は、セデスが初めて得た、彼を必要としてくれる存在だったから。
 孤児で、博愛だけに守られて育ったセデスにとって、少女はとても新鮮だったのだ。だから、せめて――
 この子を、そばにいられる間だけでも、守れたらいいと思った。
 それはとても、温かくて幸せな気持ち。

     *

「セデス様ぁーっ!」
 ひとけもあまりない、礼拝堂の朝。
 満面の笑顔で飛び込んでくるカトレアを、セデスも笑って受け止めた。
「お会いしたかったです! 十日も会えないなんて、お父様ったら!」
 初めて会った日以来、毎日のように通い詰めては、セデスの後をついて回った少女は出会った頃のセデスくらい――もう一つ上の、十三歳になっていた。
 分別がつく頃には会えなくなる、そう、セデスは思ったけれど、今のところ、その気配はない。今でも頻繁に、カトレアは教本持ち込みで『お勉強』と称して神殿に遊びに来るのだった。
「セデス様、ぎゅーってして欲しいです!」
 その日、いつになく上機嫌に、カトレアが言った。
「うん? いいよ、こう?」
 セデスが軽く力を込めて抱き締めるが、カトレアは満足しない。
「違います、もっと、カトレア可愛いーって。嬉しい気持ちをたくさん込めて、ぎゅーって」
 セデスはびっくりして、まじまじとカトレアを見た。
「え……それって、ええと、いいの?」
「? 何がですか?」
 怪訝そうに見上げられて、セデスは一人で赤面した。
 カトレアは、きっとそういう意味で言ったんじゃないのに。
 何だか、少し、違う意味にとってしまったみたいだ。どうかしてる。
「――ええと……」
 少し途惑いがちに、それでもセデスは言われた通りに彼女を抱き締めた。
「……こう?」
 いつもより、少し深くに――体温を感じるくらいの近さで抱き締めた。栗色の巻き毛に軽く、頬を寄せる。カトレアは可愛い。込める思いには事欠かない。そばにいる間だけでも、その笑顔を守れたらと、思うから。
「んっ……そうです。気持ちいいです♪」
 カトレアが満足げな様子を見せて、頬をすり寄せてきた。
 それにドキっとして、セデスは内心、動揺した。
 まずい。
 どうしよう、今、何だか変に愛しさが込み上げて……何かのはずみで、恋愛感情みたいなものが入った感じだ。今、妹として抱いていないかもしれない。
「セデス様、カトレアのことが好き?」
「……」
 答えたら、それに気付かれてしまう気がして、セデスはただ、こくりと頷いた。
 どうしよう。
 こんな風に、抱いていていいんだろうか。
 セデスの内心の葛藤など気付くべくもないカトレアが、さらに追い討ちをかける。
「セデス様、もっと、ぎゅーってして下さい! 思いっきり! カトレアが苦しいくらいでいいですからね♪」
 ええっ!?
「……う……、うん……」
 動揺を悟られたくないセデスは、ことさら『いつもと同じ』に振舞おう、兄代わり、兄代わりなんだと自分に言い聞かせて動こうとして、余計に自分自身を追い込んでいた。
 ただ一言、「ごめん、ちょっと待って。何だかどうかしたみたいで」と言えば良かったのに、5つも年下の少女に翻弄されたと認めたくないセデスには、その選択は思いつけなかったのだ。
 今はただ、一度意識してしまったものが、取り消せない。
 カトレアを抱くのなんて今日に始まったことじゃないのに、こんなに、どきどきするなんて――
「……んっ……」
 カトレアが少し苦しそうな声を漏らすと、セデスはすぐに腕を緩めた。
「ごめん、苦しか――」
「ああっ、だめですセデス様! 腕、そんな簡単に緩めちゃだめなんですよ!」
 非難ごーごーのカトレアに、セデスの途惑うまいことか。
「……な、何で……!?」
「もぉっ。カトレアが気絶するくらいがいいんです〜っ! そう言ってました!」
「誰が。」
「お父様です♪」
 得意げに告げるカトレアに、セデスは何だか、沈痛な気持ちになった。それ、絶対ウソだから。カトレアのお父さん、娘に変なこと吹き込まないで欲しい。どこの貴族だろう。
「いいですね、だから、もっと思いっきりですからね! はい、抱いて下さい〜♪」
「…〜」
 いいのかなあと思いつつ、どうにも逆らえなくて(カトレアって、立派に命令し慣れていると思う)言われた通りに抱き締めた。
「……んっ……」
 カトレアが、苦しそうな息を漏らす。本当にこんなことをしていいのか、この上力を込めたりして、大丈夫なのか。
 少女を案じる思いが、気持ちの動揺にさらに拍車をかけていた。
「……あっ……!」
 苦しげにしたカトレアの手が、すがるように腕をつかんだ。指が食い込んでくる。
 何だかわからない、気持ち。
 いけない。
 いけない、もっと、すがらせたい――!
 ひとしきり抱き締めてカトレアを離すと、セデスはカトレアに背を向けて、震える手で、口許を押さえた。
「セデス様?」
 苦しげな息をしていたのに、すぐに立ち直ったらしいカトレアが、回り込んできて彼を覗き見た。
「見るな!」
 とっさに怒鳴りつけて、セデスはそうした彼自身に驚いた。誰かに怒鳴りつけたのなんて、初めてのことだったから。
「セデス様、お顔が真っ赤です! たいへんです!」
「い、いいから放って……!」
 目を丸くしていたカトレアが、ふいに、何かに気付いた様子でくすくすと笑った。
「わかりました、セデス様、どきどきしちゃったんですね♪ カトレアが可愛いからです♪」
 セデスはぎくりとした。
 ――そう、だったから。
 認めたくなかったことを、いつか、認めなければならなかったことを、突きつけられた気がしたから。それが、意味する未来――
「カトレア、君はわかっているの。君は、本当に可愛いんだ。こんな……」
 セデスは顔を覆うように額を押さえた。
「もし、僕が君を襲ったらどうする気なんだ!」
 その感情を認めてしまえば、妹だと思えなくなったら、もう、カトレアのそばにはいられない。
 けれど、カトレアは途惑い気味にセデスを見るだけだった。
「セデス様……? だって、それ、いけないんですか……?」
「何言って……いけないんですかって!」
「いけなくないです。カトレアはセデス様のお嫁さんになるんですから、別にいいと思います」
 セデスはびっくりして、カトレアを見た。
「カトレア……?」
 彼女をまじまじと見て、その瞳が真っ直ぐ、一点の曇りもなしに彼を見るのを見て、ズキリと胸を痛めた。
 あの約束、まだ覚えて――信じて、いるんだ。
 騙した。
 疑うことを知らない少女に、本当のことを言えなかった。
 もう、限界なのかもしれない。
「カトレア、ごめん。無理なんだ……君がまだ、あの約束を覚えていると思わなかった」
「……え……?」
「僕は孤児だよ。カトレア、君は貴族だね。君の事は好きだけど……僕がどんなに君を好きでも、つり合わない。一緒には、なれないんだよ」
「そんな……そんなはず、ありません! だって、カトレアはセデス様が大好きですもの! セデス様と一緒がいいです! 誰がだめだって、誰がだめだなんて、言うんですか!?」
「――お父様に話してごらん。だめだと言うよ」
 途端に、ぱっとカトレアの顔が輝いた。
 予想外の反応だ。
「まあ、お父様ですか!? わかりました、お父様がいいとおっしゃったら、セデス様、カトレアにプロポーズして下さるんですねっ。セデス様、そんなにカトレアと結婚したかったなんて!」
 ――え? 何、待って!
「即OKですから、すぐにお話してきますねっ。お父様、カトレアを命を懸けて守って下さる人で、カトレアより先に死なない人で、カトレアが気に入った人ならそれでいいっておっしゃってました! わぁいっ」
 とっさに、駆け去ろうとしたカトレアの手をつかんだ。
「セデス様……?」
 もう会えなくなると、直感したから。
 それだけ娘を溺愛しているなら、彼との結婚なんて、許すはずがない。
 ――要求がひどく高いし。(命を懸けて守るのに、カトレアより先に決して死なない、というのは相反さないだろうか? いつも、完璧に守り抜けということなのか)
「待って……。少しだけ、待ってくれる? 君に渡したいものがあるんだ」
 一度部屋に戻ったセデスが持ってきたのは、指輪だった。古い、透き通る翠の石の。
「こんなものでごめん。方術師は、司祭以上の位を得ない限り、私財を持つことを禁じられているから――」
「……これは……?」
 セデスはふっと微笑んで、大切なもの、と答えた。
「ラスタード、命の石だよ。両親の形見……覚えていない両親だけど、それでも、その両親がたった一つ、僕に残してくれたものがこれなんだ。――だから、信じて欲しい」
「セデス様……?」
「僕は、本当はいつも君が来るのを待っていたんだと思う。――カトレア、君のこと、ずっと好きだった」
 カトレアが両手で口許を覆って、セデスを見る。
「ほ、本当に……? セデス様、本当にカトレアが好き……?」
「――うん。6年間、そばにいてくれて、……ありがとう。言ったことなかったけど、ずっと、君が支えだった」
 泣き出しそうに目を潤ませていたカトレアだったが、さすがに、気付いたようだ。
「セデス様、どうして……これでお別れみたいな目で、カトレアを見るんですか……?」
 彼はただ、微笑んだ。答えなかった。
「カトレア、キス、してもいい?」
 もちろんですと答える少女の巻き毛に、柔らかく口付けて離れた。
 カトレアはちょっと不満げだ。
「頭だけですか?」
 もっと〜、と、カトレアが上目遣いにセデスにせがむ。
「続きは、カトレアのお父さんが許してくれて、カトレアがもう少し、大人になったらね」
 そうでしたと、気を取り直した様子でカトレアが微笑む。
「それじゃあ、すぐに行って戻ってきますね! 絶対にOKですから!」
 そう言って、駆け去った少女が連れ込んだのは、あまりに――セデスが想像すらしなかった、雲の上に住まうような大物だった。

     *

「大司教、午後から、皇帝がこちらに来ると通達が」
「皇帝? ガルザス一世が?」
「いえ、即位したゼルダ新皇帝です」

 その日の午後、神殿はひどく慌しい空気に包まれた。
 死霊術師である皇家の人間が神殿を訪れることは稀で、その度に、何か問題が起きるくらいだったからだ。とはいえ、必ずしも皇室側が絡んでくるわけではなく、神殿側がその暗殺を狙うことも少なくなかった。
 聖アンナはじめ大司教、司祭長と、皆が気をもむ綱渡りだ。
 そして、その日も例に漏れず、穏やかには終わらなかった。

     *

「セデス! 陛下がお呼びだ。失礼のないよう、気をつけてな」
「私、ですか……?」
 そう告げられた時、セデスはまだ、カトレアと皇帝を結びつけては考えていなかった。ただ、驚いた。
 命じられるままに神殿内の一室に向かい、そこで、セデスはふいに身の危険を覚えた。
 待ち受けていたのは美貌の青年と、その近衛が4人。青年は二十代後半くらいの風格ある人物で、一目でこれが新帝だと直感させた。カトレアと同じか少し濃い、バーントアンバーの長髪を、支配者然と結い上げている。それがひどく様になっているのだが、今は、瞳の冷たさと残酷さの方が、気にかかった。
「おまえか、セデス・カスティールというのは」
「はい」
 セデスが一礼して答えると、皇帝の目配せを受け、その近衛がセデスを取り押さえた。
「何を――っ!」
 セデスの喉元に、皇帝が抜き放った長剣を突き付ける。
「カトレアとはいつ会った?」
「!」
 セデスは大きく目を見開いて、まさかと、けれどそれしか考えられないと、思った。
 カトレアは、皇妃に上がる予定だったのか、と――
 2人が父娘であると考えるには、皇帝はあまりに若すぎたのだ。
 身の危険を覚えながらも、セデスの中で、なけなしの何かが屈したくないと我を張っていた。殺されても、負けたくない。
「……6年前です」
「ふうん? また随分、カトレアが幼い時だな――。それで? おまえは6つの娘に目をつけて、12になったところで手を出す童女趣味か」
 セデスはカっと頬を染め、皇帝を睨んで言い返した。
「カトレアは13です! それに、私は――今日まで、彼女を恋愛対象に見てきたわけではありません! ただ、妹がいたらこんな感じかと思って、彼女が――」
 皇帝の目が、底冷えするほど冷たく輝いた。
「やれ」

 ガッ!

 頭に、強い衝撃と痛み。
 けれど、それをゆっくり痛がっている暇はなかった。続けざまに、暴行を加えられた。
 ついには立っていられなくなり、膝を突いたセデスの胸倉をつかんで、皇帝が告げる。
「年くらいは覚えていたようだがな。孤児の身で、あの娘とつりあうなどと考えたわけではあるまい。何を企んでいたか、吐いてもらおうか」
「……何…を……! あの子が、亡くした兄を思って泣いたから! 兄の面影を追うあの子を、突き放したくなかっただけです!」
 セデスには、皇帝の意図がわからなかったから。ただ、抗議した。
「あの子がだめにならないように、兄代わりに、そばにいてやりたいと思って……それが、いけないんですか!」
 皇帝が口の端だけで薄く笑った。目は底冷えするほど冷酷に、セデスを見ていた。そのこぶしが、セデスの鳩尾深くに入った。
「……ぐっ……!」
「わざわざ逆鱗に触れるか、いい度胸だ」
「……!?」
「証拠こそ、出ぬがな。その兄を、私の長男を殺したのが、貴様の育ての親だ!」
 セデスは目を見張って皇帝を見た。
 何――?
「……そ……」
「吐け」
「知らない! 司祭長様はそんなことなさらない!」
 暗殺するために、手に入らない少女に近づいたのだと。
 あるいはその手引きをさせるために、美貌に惑わされたふりをして、近づいたのだと。
 皇帝はそれと決めてかかり、容赦のない拷問を受けてもセデスがそれと認めないと、その身に強い呪詛を施した。
 それは、殺されなかったことが不思議なくらいの――


 去り際、皇帝が冷笑のうちにささやいた。
「――覚えておけ、セデス。カトレアは、あれを命を懸けて、あれが何を失おうとも、愛し抜ける男にやる。貴様などには――、あれの兄を殺した者の手先などには、間違ってもやらん。たとえ、貴様が大司教まで昇り詰めたとしてもな」
 ――何……?
 そんなのは、地位も財産も持たない彼が、唯一満たせる条件だ。
 セデスは動くことすらままならない身で、必死に起き上がって皇帝を見た。なお、怯まない目をして。
 カトレアのことは諦めていた。けれど、本気じゃなかったわけじゃない。大切だったから、諦めたのだ。何を失ってもどころか、彼女があんなにたくさん、持ってさえいなければ、連れて逃げたのに――
 ただ、不幸にするとわかっていながら、そうすることなどできなかっただけだ。こんな風に、弄んだと蔑まれる覚えはない。
 皇帝はセデスの反抗的な視線に気付くと、くすりと冷たく笑い、彼が気絶するまで近衛に殴らせた。

     *

 呪いが夜毎、身を蝕んでいた。
 眠れない夜が続き、セデスは目に見えて衰弱した。

     *

「……アンナ……?」
 朦朧(もうろう)とした意識の中に、時折、その姿を見た。
 その夜から、アンナが呪いの強まる深夜、ひっそりと彼を訪ねて来ては、その苦痛を束の間和らげて、出て行くようになっていた。
「……アンナ、皇帝はなぜ、司祭長を……? 違うのでしょう?」
 5日目の晩だった。ずっと気にかかっていたことを、セデスはアンナに尋ねてみた。尋ねることすら、育ててくれた司祭長への裏切りのように思えて、はばかられたのだ。そのために、今日まで誰にも尋ねられずにいた。
「……セデス、それは貴方が、その目で見定めなければなりません。貴方になら、答えが見える。見えなければ、アルベールに直に問いなさい。義理とはいえ、あの人が貴方の親なのだから。誰かを信じる事は、決して、疑わないことではないのですよ。疑った時に、真っ直ぐに話し合い、理解し合えることです。第三者に尋ねることは、アルベール自身の言葉より、その第三者の言葉を信じること――アルベールを信じようと思うなら、極力、控えなければなりません」
 セデスは少し恥ずかしく、アンナから目を逸らした。
 当たり前のことで、司祭長以上にアンナを信じているから尋ねたのだけれど。
 アンナがいなかったら、やはり、また別の誰かに尋ねていた気がするのだ。
 本当の意味で、自分は司祭長を裏切っていたのだと。
 恩ある育ての親を、話すら聞かずに疑っていたのだと、気付いた。
 本人に確かめることさえ、できなかった。
「……わかりました、今度、義父に聞いてみます――」
 闇の中でも、むしろ、闇の中でこそ、アンナの放つ仄かな光が淡くアンナを浮き上がらせて、美しい。その淡い青紫(ラベンダー)の瞳など、誰より澄んで透明だ。
 アンナを見ていると、何もかもアンナに委ねたくなってしまうけれど――
 セデスはふと、クスと笑った。
 そういえば、カトレアが何もかも彼に確かめたがるなと、思い出して。
 彼がアンナに寄せるほどの信頼を、彼自身、カトレアに寄せてもらっているのだろうか。
 カトレアが信じてくれるなら、しっかりしないと――

     *

「あれはだめだ、カトレア」
「え……?」
 セデスが求婚に来るのを、今日か明日かと落ち着かなげに待つカトレアに、皇帝が告げた。
「あれは、お前を利用するために近付いた、タチの悪い者だ。二度と関わらぬよう」
 カトレアは目を見開いて父親を見た。何を言っているのか。
「そんなはず……そんなはずありません! だってお父様、セデス様は優しいんです! カトレアが、ぶさいくな子犬がいたから石を投げて追い払おうとしたら、だめだって、庇って怒ったり、」
 何やってますか、カトレア姫。
「あんまりこわい死体さんを起こしてカトレアが泣いたら、ターン・アンデッドして下さったり、」
 皇帝が、我が娘可愛いなあ、どうしようかなあと思う瞬間だ。
「セデス様はいつだって優しくて、いつだってカトレアを助けて下さいました! 最初から……セデス様は、カトレアも、誰も、利用なんてしません!」
「――だが、一向に、お前を訪ねて来ないだろう? カトレア、あれはエルディナスを殺した者の手先だ。――わかったら、二度と会わぬよう」
「そんなはず……」
 兄を殺した者の手先? どうして、そんなことになっているのだ。セデスはどうして来ないのだ。
「そんなはずありません! お父様の馬鹿あっ!」
 カトレアは泣いて皇帝をなじると、駆け去った。

     *

 6日目の夜。セデスはその翌朝に、皇居への出頭を命じられていた。解呪も、身を癒すこともいまだ許されてはおらず、命令は死体でも構わないという、酷いものだった。


「セデス――」
 気配に、彼は最初アンナかと思ったけれど、声はもっとずっと低いものだった。
「司祭長……」
 義父が彼の様子を見に来るのは、この夜が初めてだった。それは皇帝命令で、見舞うことの方がいけないのだ。アンナはこっそり、ズルをして彼を見舞っていたから。
 セデスは沈黙の中、迷った。聞いてみようか。でも、聞けるだろうか。あなたは人を殺したのですか、なんて――
「酷いな……。皇帝が何を意図しているか、わかるか」
 わからない。聞いても構わないだろうか。皇帝の言ったことが、真実なのか、嘘なのか――
 そうか。
 今、聞けばいいんだ。
「陛下は、私にあなたが自分の息子を殺したんだと言いました。明日も、もう一度、それを聞かれるんだと思います。私は――明日、殺されますか……?」
 おそらく、と、司祭長が重く口を開いた。
「それがあの皇帝のやり方だ。ない証拠なら作れば良いと――この7日を空けたのは、真実がどうあれ、おまえにそうと認めさせるためだ。おまえの告白を得て、私を断罪せんがためにな。だが、そうと認めぬ限り、おまえは拷問の果てに殺されるだろう」
 どうする? と、司祭長の目が強い意志を秘めて問うていた。
 一方、セデスはどこかほっとしていた。
 そうか、と。
 権謀術数だったのだ。彼は今、皇室と神殿の確執の渦中にいて、皇帝は何らかの事情で司祭長を断罪したいだけで、司祭長が本当にそれをしたかどうかとは、無関係だったのだ。
 司祭長が本当にカトレアの兄を殺していたら。
 そのために、彼が皇帝に殺されるとしたら。
 カトレアがあまりに哀れだから――
 そうでなかったのなら、いい。彼女が少し泣くかもしれないけれど、明日、真実を守って死のうと思った。
「私は偽証は行いません。あなたが真実、皇子を殺したのでない限り――殺されても、認めません」
 私は殺さぬよと、答えがあった。安堵の息をついたセデスに、司祭長が言った。
「セデス、おまえは理不尽だと思わないのか。怒りを覚えないのか?」
「司祭長――?」
 義父の目が、真っ直ぐに彼を見る。セデスは何か、強い意志に捕われるように、錯覚した。
「今の皇室ある限り、こんなことが何度も繰り返される。おまえのように何の罪もない者が、理不尽に命を摘み取られるのだ。――私は我慢がならない。おまえが殺されることも、これまでのように、これからも、同胞たちが殺されることも――」
 その言葉に、セデスはハっとした。そうだ。彼で終わりでは、ないのだ。
「セデス、おまえがただ殺されても、何一つ変わらぬ。死が逃れ得ないものなら、一矢なりと報い、我等が無力でないと思い知らせてやらねばならぬ。カムラの、虐げられた民の未来のために」
 ――そう思うなら、白羽の矢が立てられたのが彼で、良かったのかもしれない。彼は孤児だ。その死で深く傷つく者は、おそらく、そう多くはないから。
「私への気兼ねは無用。私は――このカムラで聖衣をまとった時に、死の覚悟は決めている。そして、何が大切なことか、おまえに教えてきたつもりだ。おまえが良かれと信じて行動するなら、私は止めぬ。おまえは聡明だ。意思も強い。おまえのような者が動かなければ、神殿は遠からず、力によって蹂躙されるだろう。セデス、ここに生まれ、人の悲しみを学んだ意味を、考えねばならぬ。おまえには、もはやほとんど時間が残されていないのだから――」
 頷いたセデスに、司祭長が何か握らせた。何らかの方術を記した、呪文書のようだった。
「何か、私に言い残したいことはあるか? 父親だと思って、何でも言いなさい」
 セデスは少し考えて、首を横にふった。
「いいえ。司祭長、ご指導感謝いたします。私は――やはり、まだ若輩ですね。自分のことまでしか、考えが及びませんでした。残された命と時間、無駄にしないこと――カムラとアンナのために、この命を何に使えるか、考えます」
「……セデス、おまえは私の誇りだ。十七の若さで国の未来のことまで考えられる者は、そうはいない。あと五日で十八だったが……祝ってやれなかったな」
 いいえと、育ててくれたこと、感謝していますとセデスは笑った。
 この国に、カトレアが住まうのだから。そのカムラの未来のために命を懸けられるなら、無駄死によりずっといい。
 カトレアに会わせてもらおうと思った。
 ただ殺されてはならないのだ。せめて彼女だけにでも、真実を伝えて――
 娘の言葉なら、皇帝の心にも届くかもしれない。
 皇帝に伝える。人の心の痛み。理不尽な暴力への怒り。摘み取られる命の悲しみ――
 司祭長が出て行くと、セデスは何だろうと、与えられた呪文書をひもといた。


「アンナ!」
 重い、呪詛に蝕まれた身を引きずるようにして、セデスは神殿の奥、アンナのいる聖殿に足を踏み入れていた。
「アンナ!」
 血を吐いた。それよりも、痛い。
 聖殿で、アンナは静かにセデスを待っていた。
「アンナ、貴方は――私に見定めなさいと言いました。どういう、意味だったのですか。これが答えなのですか!」
 司祭長に渡されたのは。
「司祭長が――司祭長が、殺させたのですか! アンナ……!!」
 悲痛に言って、セデスは顔を覆った。いつしか涙さえ、頬を伝っていた。
 渡されたのは、その命を代償に、相手の命を奪う術式だった。
 カムラに仇なす皇帝を、殺せと。そう言うのか。カトレアの父親なのに……!
「アンナっ!!」
 天使は静かにセデスに歩み寄ると、闇の中、その仄かに光る白い翼で包むようにした。
「セデス、それでも、司祭長の言葉も正しいのです。あの人は、偽りは何も口にしていない。セデス――もう、巣立つ時です。自身の目と耳で、見定めなさい。悲しみの本当の意味を、考えなさい。いみじくも、司祭長の言った通り、貴方には時間がない。そして、貴方は――」
 司祭長よりも、知っているのだと。
「セデス、私は近いうちに、必要であればサクリファイスを定めようと思います。貴方が志願するなら、貴方に定めてもいい。サクリファイスとなれば――、この先、あなたがカムラ皇室と神殿の未来を左右することになる。その責と力を得たいか、あなた自身で考えなさい。そして、貴方自身の意思で選びなさい。貴方が選ぶなら、その命運を代償に、力を貸しましょう――」
「……サクリファイス――」
 それは、天使への生贄。
 アンナの肉体が滅んだ時に、次の器となる者。
 それまでの間、アンナの加護を最大限に受ける、カムラ方術師の筆頭となる。大司教に匹敵する神殿内権力をも、得る。


 部屋に戻ると、苦痛に悲鳴を上げる身を抱え、セデスは独り、声を殺して泣いた。
 カトレアだけが。
 彼女だけが、当たり前のように彼が生きることを望んでくれた。
 カトレアだけが、彼の生を肯定してくれた。
 涙なんて止めようと顔を覆った指の隙間から、また、溢れた。
 皇帝はもとより、義父も、アンナさえ、彼の死を前提にして話をした。
 皆、それを――
 知らなかった。自分がこんなにも愛されたがっていたなんて。
 彼の死を願う身近な人々の言葉が、これほどまで酷く、胸を抉るなんて。
 両親にさえ、愛されなかった。捨てられた。
 ここに独り、体は苦痛だけを訴える。相談できる相手は、皆、彼に死を提示する。
 セデスは泣き濡れた目で、ぼんやりと机上に置いた編み物を見た。カトレアが、セーターだと言ってくれたもの。むしろ鍋敷きみたいなものだけど。
 こんがらがってこれ以上編めなくなっちゃいましたと、臆面もなく贈ってくれた。着れないけど。
 カトレア……。
 いてくれて、どんなに救われたかわからない。光だった。誰よりも愛らしい、彼の天使。
 失う未来を恐れていないで、もっと伝えれば良かった。どんなに好きだったか。
 降るように、惜しみなく愛を与えてくれた、彼の天使。

 セデスはただ一つ、一番大切なことを心に決めると、それだけでいいと目を閉じた。

     *

 翌日。セデスを待ち受けていたのは、司祭長が言った通りの拷問だった。
 彼の主張は決して通ることなく、ただ、苦痛と偽証を強要された。
 もう、呻く力もなくなった頃、皇帝に襟首をつかみ上げられた。
「どうだ、言い残すことはあるか?」
 セデスは真っ直ぐ皇帝を見ると、苦痛に顔を歪めながらも、しっかりとした口調で言った。
「あります。カトレアに会わせて下さい」
「無理だな。おまえが死んだとなればあれが悲しむ。あれには、おまえは国外に留学したとでも、伝えておこうよ。時に、あの娘に会って何とする?」
 試すような皇帝の言葉に、セデスは状態からすれば驚くくらいのしっかりとした口調で、答えた。
「伝えます。私は――私には、司祭長が本当のところ皇子を殺したのかどうか、わかりません。でも、彼女のそばにいたのは、ただ、彼女が大切だったからだと、愛していると伝えます」
 皇帝がわずか、口の端を引き上げる。
「いい度胸だ、その上強情なことだな。だが、およそ信じられん。あの娘を人質に、逃げおおせるか――あれの暗殺を吹き込まれてきたか、どちらかであろうよ」
 ――あなたの暗殺なら、吹き込まれてきましたけどね――
「情けをかけてやるのは最後だ」
 皇帝がふいに、冷酷ながら流すような目で彼を見た。その喉元に、剣先を突き付ける。
「死にたくなければ吐くがいい。司祭長ないし神殿内部の反逆者に、何ぞ吹き込まれてきたはずだ」
 聞き方が変わった。それは――
「くっくっ……、どうした? 図星だな、顔色が変わった」
 セデスは息を呑み、直後、いけないと思ったけれど、遅かった。その反応が何より、その通りだと教えていた。
「なら、吐いてもらおうか。吐かねば両手両足一本ずつ切り落とし、それでも易くは死ぬこと叶わぬ呪いをかけて、見せしめに神殿に送り返してやるぞ。正気を失うほどの苦痛と、貴様をおぞましげに見る身内の視線に興味があるか? 言え。誰に何を吹き込まれてきた」
“司祭長に”
 身が震えることに、セデスは気付いていた。
 皇帝の言葉は真実。
 皇帝の逆鱗に触れ、打ちのめされた彼を見捨てた人々は。
 彼に、命を懸けて皇帝を暗殺するよう指示した司祭長は。
 そうして送り返された時には、彼を、人ではないものかのように見るのだろう。
 ただ、見捨てられる――
「皇帝陛下、貴方は頭がいい」
「世辞なら不要だ」
「貴方は私に、貴方に逆らうことへの恐怖と苦痛を植えつけ、同時に身内の冷たさをも、思い知らせた。今この時に、私が何のために身内を庇うのか、わからなくなるように」
 皇帝はただ冷笑し、目を細めた。それは無言の肯定。
「そして、皇室に仇なす意思のある者が、私を捨て駒に使うよう、仕向けた。貴方は、司祭長が殺したと言ったけれど、方便だった。証拠がなくとも、当たりがついていたなら、貴方は司祭長を殺したはずだ。そのくらいの強引さを貴方は持っている。そうしなかったのは――、貴方には、本当は誰が貴方に仇なす者なのか、わからなかったからだ!」
 皇帝は嬉しげに笑った。
「ふ、おまえもたいがい賢いな。カトレアが選んだだけのことはある。――そう、天使はアンナ一人。方術師どもは、それにすがる卑小で愚かな人間に過ぎん。思い知っただろう? 偽善者面したやつらの冷たさと、卑劣さを――さあ、吐け。協力しろ。素直に吐けば、あれにも一目くらいは会わせてやろうよ。命も助け、国外に逃亡させてやる」
「!」
「両手両足もがれるのは、想像を絶する苦痛だろうな。おまえを見捨てた者どものために、わざわざ甘んじることはあるまい。私は、あれの兄を殺した者を、必ず突き止め八つ裂きにするのだ」
 皇帝の目に、残酷な光。
 どこまでも貶め合い、殺し合う。
 憎しみが憎しみを呼ぶ、負の連鎖。
 セデスは真っ直ぐ皇帝を見ると、告げた。
「私は皇室の誰の暗殺にも、そして、神殿内の誰の暗殺にも手を貸さない」
 痛みを忘れたかのように、意思の力だけで聖印を切った。
「!」
「陛下、危険です、お下がり下さい!」
 近衛が叫ぶ。一方で、皇帝もとっさにセデスに仕掛けたが、何かの強い守護に阻まれ敵わなかった。よほど、力のある聖印を切ったらしい。少年と侮っていた。
 ――この若造、使える!
 危険だった。対抗呪文はいくつか手持ちにあるが、命を捨てるつもりの力のある方術師は、侮れない。
「……我 尊きもの 天よりの御使い 我が守護者たる聖アンナに誓う 我が全霊を神意に供し 御前にただ一つを願わん――」
 セデスの身に光が満ちて、溢れるようにこぼれ出した。その両の手の平の間に、一際強い聖光が生まれ、増幅されていく。
リード・サクリファイス!!
 光が満ちた。辺り一面に光が降り注ぎ、その光の中で、セデスはただ一つのことを願っていた。愛しい少女を悲しませる負の連鎖。それを断ち切りたいと。
 全ての悲しいことを終わりにしたい。
 もとより、彼女は手に入らない。だからせめて、彼女の笑顔だけでも守りたいから――
「皇帝陛下、もう一度言います。私は皇室の誰の暗殺にも、神殿内の誰の暗殺にも、手を貸さない。私を従わせるのは聖アンナ、そして、カトレアだけです」
 皇帝は初めわずかに口の端を引き上げ、次には、声さえ立てて笑った。
「見上げた根性だ、気に入ったぞ、セデス・カスティール」
 皇帝は静かに剣を鞘に収めると、
「身の潔白を証すために、サクリファイスの道を選ぶか――」
 まだ光収まらぬセデスの元へと恐れげもなく歩み寄り、そのあごを取った。
「顔も悪くない。綺麗事だけでは国は治まらぬがな――カトレアが女帝になるわけでもなし、よかろう。今のセリフも良かったぞ。聖アンナはともかく、カトレアにも従うか」
 くっくっくっと、腹を抱えて笑う。やけにうけている。彼は必死だというのに。
「大司教になれてもくれてやらんと言ったが、上手いな。おまえが、正式にサクリファイスと認められた暁には、カトレアをくれてやる。せいぜい、生き延びてみるんだな。おっと、くれてやる以上は、カトレアより先に死ぬなよ」
 セデスは耳を疑って、皇帝を見た。
 何……?
「ふうん、おまえ、よく見たら随分綺麗な顔だ。あれも私に似て、面食いと見えるな」
「……」
 確かに、親も娘も妙なところで顔にこだわるかも。
「フフ……男色の気はないんだが……男でも抱いてみたいと思ったのは、おまえが初めてだ。光栄に思えよ」
 あまりのことに、セデスはげほげほとむせた。
 こ、この人変態なんだろうか。どうしよう。そう言えば、カトレアに変なこと吹き込んだのもこの人か。
 ある意味、かつてない危機感を覚え、真っ青な顔で後退るセデス。
 彼の動揺ぶりに、涙を流して笑うゼルダ皇帝。何だか、一つをきっかけに何もかもがツボにはまったみたいだった。
「陛下!」
 顔を真っ青にした侍従が駆け込んで来たのは、その時だ。
「何だ」
 その者が何事か耳打ちした途端、皇帝の表情が一変した。
 最初より、余程険しく憎悪と怒りに満ちた視線でセデスを睨んだ。

 ――パアン!

 皇帝の両眼が真紅に光り、次の瞬間、セデスの背後で一抱えもある花瓶が砕けた。
「……陛下……?」
 人々にカムラの若獅子と呼ばしめた、いや、鬼神と呼ばしめた、敵を震え上がらせる鬼気迫る怒気が、その全身から放たれていた。
「残念だったな、娘、くれてやろうと思ったが……どうやら、神殿側が邪魔をするようだ。カトレアが欲しければ、あれを人殺しにした男の首を、その手で刎ねて持って来い! できねば構わん、貴様が下手人だ。呪いは解かせぬ――そのまま、サクリファイスとして呪い殺されるがいい!」
「皇帝陛下!」
 諫めかけた近衛の襟首を、乱暴につかんで皇帝が言った。
「口出し無用! 今は、誰でもいいから殺したい気分だ、貴様が死ぬか?」
 息を呑む近衛を放すと、皇帝は赤い瞳のままで部屋を出て行った。

     *

「司祭長! セデスが……いえ、セデス様が、サクリファイスとして戻され、暗殺の主犯、解呪は厳禁との通達です……!」
 神殿内の一室。もたらされた報せに、司祭長は目を見張り、次には力任せにその拠り所とした聖典を、机に叩き付けた。
 いったい、どういうことなのだ。
 暗殺の失敗に飽き足らず、なぜ、セデスがサクリファイスになど――
「……アンナか……!」
 そうとしか、考えようがなかった。司祭長は血が滲むほど唇を噛み、低く呟いた。
「……スクルドを呼べ」
 サクリファイス。
 神殿内で、司教にも匹敵する権勢を得る。
 あまつさえ、それは不可侵のものだ。
 カムラにおいてはその存在が、方術、ひいては神殿自体の存続に関わるために。
 そのサクリファイスの命運を、皇帝に握られているなど――!


 その男が入室すると、司祭長は厳かに告げた。
「スクルド、セデスがサクリファイスとして戻された。悪いことに、皇帝に呪いをかけられて、余命いくばくもない。司教まで話がいけば、大事にいたる……。何をなすべきか、わかるか」
「……」
 みるみる顔色を悪くして、八方塞がりではと首をふる男に、司祭長は薄く笑って告げた。
「セデスを殺せ。死霊術師に心奪われたサクリファイスに、用はない」
「なっ……」
 男もさすがに息を呑み、正気を疑うように司祭長を見た。
「司祭長、サクリファイスの暗殺など、前例がない! 万が一、万が一にも、聖アンナが復活しないとなったらどうされる!」
「……セデスをサクリファイスに仕立てたのは、アンナだ。アンナに、それが引き金となる神殿の内部分裂、結束の瓦解が見通せていないはずがない。アンナは我らを切り捨てる。昔も今もな。――スクルド、おまえは誰にその信仰を捧げるのだ。アンナか、神か」
「――」
「カムラ皇室の仕打ちを忘れたわけではあるまい。アンナは、その皇室すら庇護するのだ。――アンナは我らを救わぬ。おまえも私も、アンナに見捨てられた存在。忘れることなど、できようはずがないのだから――……セデスを殺れ」
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