つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、たくさんあった。
だけど、嬉しいこと、楽しいことも、たくさんあった。
胸が躍るような素敵なことは、すべて、僕を追いかけてくれるデゼルと過ごした、優しい時の中に。
学校では孤立したまま、身に覚えのないことで先生に叱られることが増えていた。
だけど、ゆっくり叱られている時間はないから。
学校が終わったらすぐに帰って仕事を探して、暗くなる前に夕飯の食材を探して、夕飯の支度をして、お風呂をわかして、宿題もしなくちゃいけないんだ。
だから、最初はそんなことしていませんって言ってみたりもしたけど、信じてはもらえなかったし、今ではもう、先生が僕を叱ろうとしたら、手短に聞いて、謝って、長くなりそうなら、先生をふりきって帰るようになった。
そうしたら、先生が母さんに手紙を書いて寄越すようになって。
こんなの読んだら、母さんが心配する。
だから、帰りの遅い母さんより先に僕がその手紙を見つけて、隠してた。
だって、母さんにだって、面談のために学校に行くような時間も余裕もないんだ。
母さん、病気になっても仕事を休めないくらいなのに。
これ以上、母さんにつらくなって欲しくなかった。
だけど――
僕が八歳の時に、母さんが病気で死にそうだった時に、どうしても、足りなくて借りた金貨三十枚の借金が、もうすぐ三百枚になってしまうって、母さん、泣いてた。
どうしたらいいのって、帰ってこない父さんの名前を呼びながら、肩を震わせて泣いてた。
こうりがしには、借りたらいけなかったみたいなんだ。
ごめんね、母さん。
守ってあげられなくて。
せいいっぱい、頑張ったんだけど。
この前、母さんの荒れてしまった白い手が、僕の首にかかって、母さんは泣いてて、母さん、僕のこと殺そうとしてる? って、思った。
ごめんね、母さん。
どうしてあげたらいいのか、わからなくて。
助けてあげられなくて。
そう囁いた、僕のこめかみからも涙が伝い落ちたら、僕の首を絞めようとしてた母さんの腕が、力を失った。
母さんは寝室に駆け込んで、泣き崩れてた。
僕にはどうしてあげることも、できなくて。
せめてと思って、デゼルと採ってきた木の実や野草を入れたスープをつくって、質素な寝台の脇の机に、置いておいたけど。
――時間の問題なんだって、わかった。
七月の十一歳の誕生日を迎えることは、僕にはきっと、できないんだ。
僕にはもう、わずかな時間しか、残されていないんだって、わかった。
**――*――**
闇神殿の近くで薬草や夕飯の食材を探していると、たまに、デゼルに会えた。
僕を見つけると、デゼルはいつも、花が綻ぶような、満面の愛らしい笑顔で、嬉しそうに駆け寄ってきてくれたから。
デゼルがそんなだから、どんなにつらくても、デゼルに初めて会ったあの日から、僕は叶うなら、生きていたかった。
だって、生きていたら会えるんだ。
デゼルだけは、僕に笑いかけてくれるんだ。
「サイファ、あそぼ!」
デゼルはずっと、僕を大好きでいてくれて、抱き上げれば楽しそうに笑った。
遊ぶと言ったって、いつも、最初の日と同じ。
夕飯の食材を集めるのにつきあわせているだけなんだけど。
最近は、デゼルもだいぶ、食べられる野草や薬草がわかるようになってきたみたいで、「あったぁ!」って、得意そうな顔で僕に駆け寄ってくるのが、とっても可愛い。
公園の近くの小川で魚を一緒に獲ったのも、すごく、楽しかった。
デゼル、川の浅瀬で座り込んだりしていたから、衣装が水浸しになって、神殿の人達がびっくりしてた。
デゼルが蜂に刺されて、白い手が痛々しく腫れ上がったこともあった。
デゼル、痛いのと怖いのと驚いたのでぎゃんぎゃん泣いて、泣きながら自分でヒールして。
僕がだっこして背中を叩いてあげるうちに、落ち着いてきたみたいだった。
デゼルにはすごく痛い記憶になったと思うけど、僕には、すごく甘い記憶になった。
泣きじゃくってたデゼルが僕の腕の中で落ち着いていくのが、すごく不思議で、すごく嬉しかったんだ。
ああ、デゼルには僕がいるんだって。
僕が抱いててあげれば、デゼルは何があっても、最後には笑ってくれるんだって。
僕が笑いかけてあげると、いつも、デゼルが目をまんまるにして、すごいものを見てる顔で、瞬きすら忘れて見詰めてくれたから。
そんなデゼルを見てると、僕が生きてここにいることに、なんだかすごい意味が、奇跡みたいな意味がある気がして、世界がとても確かなものに感じられたんだ。
デゼルと過ごす優しい時を、もっと、いつまでも重ねていたいのに、いつも、驚くほどあっという間に日が落ちてしまう。
「デゼル、おとなになったら、あなたをお迎えに上がってもかまいませんか?」
あの日、僕はどうしても、デゼルに想いを伝えてみたかった。
僕に時間があったなら。
僕もおとなになることができたなら。
デゼルと一緒になれた?
デゼルはすごく身分の高い闇巫女様で、闇に零れる月の光を束ねたような銀の髪も、世にも稀な美貌も、僕とは住む世界が違う人のものだって、子供心にもわかっていたけど。
母さんが、デゼル様と一緒になるのは無理なのよって言うのがどうしてか、まるで、わからなかったわけじゃないけど。
デゼルを誰よりも愛しく感じる僕の想いが、僕だけのものだなんて、僕には思えなかったんだ。
同じ想いがデゼルの中にないなんてこと、あるのかな。
ねぇ。
僕の想いを伝えるだけなら、いいよね?
デゼルが僕の手を取らない時には、困らせたりしないから。
僕の言葉を聞いたデゼルは、満面の笑顔になって、そうかと思えば、可愛らしく地団太を踏んだ。
「サイファ、おとなになるまでなんて待てません! あしたも、あさっても、迎えにきて下さるでしょう?」
ああ、あたりまえだけど、わかってもらえなかった。
僕は嬉しくって、おかしくって、くすぐったさに、笑顔がこぼれて仕方なかった。
「よろこんで」
わぁいって、嬉しそうに跳ねるデゼルが愛しくて、ぎゅっと抱き締めた。
デゼルに会えてよかった。

明日はないかもしれない。
帰ったら、今度こそ、母さんに絞め殺されるのかもしれない。
会えるのは、これが最後かもしれないデゼルを離したくなかった。
僕はデゼルを抱いたまま、涙を落としてしまっていたから、デゼルが僕の顔をのぞき込めないように強く抱き締めて、もう少しって、囁いた。
どうか、もう少し――
この場所が闇の神オプスキュリテ様の庭で、神様が見ていて下さるというのが本当なら。
僕にせめて、明日と明後日、ここでデゼルを待つ約束を、守らせて下さいますように――